軍部の命令によってアジア各地に工場を建てなければならなかった日本ドラム。
戦争で亡くなった従業員を慰霊するため鎌倉の長勝寺に慰霊碑を建て、フィリピンではフィリピン政府のご協力で慰霊祭を開催致しました。
21発の礼砲
昭和6年の柳条溝事件を発端として、日本は長い戦争の時代に突入していった。
戦火が拡大するにつれて、本野のドラム缶は軍役の最重要資材として、国策への協力を強いられる。
満州、朝鮮、ジャワ、シンガポール、フィリピン…、へと、軍の要請というよりむしろ強制によって、次々にドラム缶工場の建設を余儀なくされる。
最も苦心したのは、従業員の確保。
内地工場を何とかやりくり、ようやく20名を選び現地へ送り込んだ。
太平洋戦争も終盤に近づいた昭和19年末であった。
やっとの思いで派遣したその20名のうち、実に19名が帰らぬ人となる。生還できた一人は、まさに奇跡としか言いようがない。
神の無情を感じるが、戦争という異常事態のなかでは致し方なかったのだろうか。
吉彦は「生涯で最も悲しい出来事」と回顧している。
昭和20年の敗戦は、日本国民をかつて一度も経験したことのない苦境に陥れた。
しかし、立ち直りはことの他早かった。朝鮮動乱がもたらした特需に与ったことも幸いしたのだろう。
吉彦率いる各社もまた順調に復興していき、特需にも乗って業績は上々に推移した。
敗戦から30年も経つと、戦争による悲惨な記憶は薄れ、次の階段を上りたい意欲に燃えて日本全体が歩調を整え始めた。
そうした時に思い出されるのは、戦時中遠く南海の地で亡くなった従業員たちのことであった。
「この平和を彼らにも味合わせてやりたかった」という吉彦の常々の気持ちを早くから察知していた長男克彦は、フィリピンの知人M・ミランダ氏を介して、現地での慰霊祭を計画した。
昭和51年11月、念願の慰霊祭は実現した。
現地のマニラの工場後にはカトリックの教会が建ち、奇しくも日系人の牧師が司祭を務めていた。
当日は吉彦が招いた戦火の犠牲のなった従業員の遺族50余名に、現地の人々の参列も得て、30年間忘れじの慰霊祭が同教会で厳粛に営まれた。
吉彦は「やっと亡くなった人たちの供養ができた」と心から喜び安堵したが、このとき吉彦を驚かせたのは、フィリピン軍兵士による21発の礼砲であった。
それは戦没者慰霊碑に献花を行う際、突如として鳴り響いた。
事前に知らされてなかったこともあって、感激は一入であった。
21発の礼砲は、民間人に対しては全く異例の敬意であった。
しかも、フィリピンからすれば、日本はかつての敵国。後判ったことだが、この礼砲は田中角栄元首相に次いで2番目であった。
これほどの慰霊祭が、現地人と供に行われたことに大きな意味があった。
戦前、戦後を通じて亡くなった本野の関係者は160名に及んだ。
吉彦はこれら亡くなった社員たちの慰霊碑を鎌倉長勝時に48年に建立した。
碑には故人の名前が刻まれており、以来、朝夕一日も欠かさず梵鐘をついて、冥福を祈っている。
参考文献:「本野吉彦小伝」